■10月25日更新

安部公房全集24(新潮社)
インダス文明、エジプト文明、メソポタミア文明、中国文明…。雄大なる地球上の大地に築き上げられた文明が、今なお世界各地に残されている。そしてここ黄金の国・ジパングにも、我々を魅了してやまない文明があった。そう。日本を発祥の地とする、邦衛文明がそれである。現代の日本は、高度な印刷技術と共に多くの出版物が発行されている。このコンテンツでは、山積みされた書物の中から貴重な邦衛資料を発掘し、再現する。
 
       
  癇癪もちの“稽古風景”
【出席者】田中邦衛・仲代達矢・井川比佐志・新克利・安部公房

安部 このスタジオをつくるにあたっては、お互いにずいぷん意見を交換したね。演劇そのものに強い関心と積極性をもちながらも、現在の新劇は意欲を燃やすのに何か適当でない、といったことが動機かな。でも最初にグループをつくろうということがあったのでなく、一緒に考えようということがあって、自燃にこういう具体的な仕事をする形をとってきた。だからある意味からいうと潜在的な強い必然性があったのではないかな。
こういうと如何にも強がりに聞えるけど、理念とか概念でなく現実に内面的に演劇をつくりだしていこうという意志とイメージをハッキリもっている。そういう意味では日本の劇団やグループの中でも、非常に特異であるし、大げさにいえばはなはだ稀有なる存在じゃないかとも思う。
仲代 ぼくは役者になって二十年になる。俳優座における演劇活動はある形で形骸化し、近頃あきたらなく思っていた。俳優にとって重要な、日々自己を変えていく、鍛えていくといった訓練の場がないことを痛烈に感じていた。なんとなく流されている……といった感じ。運動選手にしても日々トレーニングが
必要だというし、ピアニストは毎日八時間練習しなけりゃ自分のもっているものを保っていけないという。ところが俳優というのは、肉体があれば商売ができちゃうというところがある。何か他の分野より遅れているものを感じていた。その意味で、ここに参加して、毎日自分を掘りかえしていくことに非帯に興味を覚えている。
田中 ぼくの場合も大劇団といわれる俳優座に十五年以上所属してきたわけだけど、外部の人からみると、新劇は青ちょろいとか気持が悪いといった批判がある。内部にいるとそれが分んなくて居心地がいい。ここ二、三年、そういう中にいる自分は不真面目じゃないか、という気がしていた。大劇団はやり方が不真面目だという感じです。それに端的にいって、新劇というのは芸能界でもかなり程度の低い団体じゃないかと思われてきた。大衆演劇や歌謡界に比べても、とても馬鹿にしたり笑えないというような。何とかしてこういう不真面目さを破っていこうとしていた時に、安部さんが役者というのは一枚ずつ皮をはいでいく作業が必要だとおっしゃっていて、それにひかれ、共鳴した。
井川 四十四年秋の「棒になった男」の時に安部さんに教わったことなんだけど、いま邦さんがいった皮をはぐといったこととは別の意味で、内側の内臓の方がふくらむというようなことを感じ、受けとめてきた。それにぼく自身も俳優座に十五年いたけれど、非常に狭い世界しかものが見えなかった。俳優座のような大劇団にいると、何にもしないでも結構なんとかなっちゃう。まず食う心配がない、確実に芝居ができる、映画もテレビも、まあできる。本当はぼくらのような仕事は、うんと満たされているか、うんと飢餓の状態にいないとできないと思うんですよ。それから安部さんがどこかで書いていることの中に「俳優たちは稽古が終ると急に生き生きと蘇る」あるいは「一つの芝居が終ると生き生きとした表情をみせる」というのがある。これは痛烈な皮肉なわけですよ。俳優として演技しなければならない肝心の空間では、金縛りにあうとか、カッコよくみせるとか、つまり外側を塗りたくることばかりに一所懸命で、内側のひずみだとか緊張とか、本当の意味での解放感が分らなくなっている。このことは新劇の舞台では非常に顕著なことだと思う。それに観客の問題もある。公演回数は増えているのに観客の総数は減っている。これはどうしようもない事実です。それは何故だろうと考える。それでも自分たちは有意義なことをやっているのだと思っていた。ところがフト考えると、ぼくらが年をとるにつれてお客さんの年が増えるのでなく、逆にお客さんは若返っていく。その間が無限に絶望的に開いていくことを知った時、ぼくはゾッとしたね。それなのに、劇団を維持していこうとしている人たちは、なおかつそれが不思議でなく、あたりまえのように簡単に容認してしまう。自分たちのやっていることが何々のために、誰々のためにということがあれば、他のことはケシ飛んでしまうということ。またそこに携わっている俳優でも演出家でもスタッフでも、それが運動という大義名分を片一方においておけば、それが質的に劣るものでも、また興行的にマイナスであっても、そこで解消してしまう。そうした逃げ場所を片一方につねに用意している態度が本物ではない、とぼくに思えてきた。それならいっそ大劇団じゃなくても、本当に芝居をやりたい人たちと一緒に仕事をしよう。たとえそれが、お客さんから受けいれられないことが数の上でも評価の上でも実証されれば、ぼくらの力が足りなかったんだと納得できるじゃないか、と考えた。自分たちが仕事をやっている瞬間瞬間が最も生き生きとするように変えていく、安部スタジオはそのような自分を投げこんでいく場所として、いまのぽくにある。
 
   
 
  <<<メニュー画面へ  
  <<<TOP画面へ  
   
      NEXT(2/3)>>>

・田中邦衛氏に関する情報、当サイトに対する要望などは掲示板もしくはこちらからお願いします。