インダス文明、エジプト文明、メソポタミア文明、中国文明…。雄大なる地球上の大地に築き上げられた文明が、今なお世界各地に残されている。そしてここ黄金の国・ジパングにも、我々を魅了してやまない文明があった。そう。日本を発祥の地とする、邦衛文明がそれである。現代の日本は、高度な印刷技術と共に多くの出版物が発行されている。このコンテンツでは、山積みされた書物の中から貴重な邦衛資料を発掘し、再現する。
 
  『照れ屋“青大将”はすばらしい人』
「婦人と暮し」1980.11月号
 

 
  オレってダメな人間なんすよ

 若い女性は、この人のことをよくかわいいという。自分の父親ほどの年齢の男性を、かわいいとはなんだ、と言う気もするが、女性にとって、男のかわいさは年齢には関係ないのかもしれない。
 男性であるわれわれは、まさかかわいいとは思わないが、それでも女性たちがそういう気持ちがわかるような気がする。そして、思うのだ。
 田中邦衛って、本当にいい人なんだなあ、と思う。
 なせそう思うのか。会ってみればすぐにわかることだが、ともかく彼は照れるのだ。四十八歳になって、これほど照れる人は珍しい。インタビューを申し込まれては照れ、向き合って座っては照れ、カメラを向けられては照れ、さらにはこちらからの質問の一つひとつに照れる。
「オレ、なにもカッコよくないし、いい話なんか、これっぽっちもないんですよ。オレなんかより、ほかにインタビューしたらいい人が、たくさんいるんじゃないすか」
 何度もこういう。それも、口先だけではなく、本心からそう思っている口調でいう。この人は、本気でインタビューされることを恥ずかしがってるんだな、と思い、続いて、やっぱり田中邦衛っていい人なんだ、と思うのだ。
 現代は、照れのない時代だ。なにも、タケノコ族の例をあげるまでもない。世の中、大人も子供も、出たがり、見られたがり、目立ちたがりの風潮。とくに芸能界にあっては、その自己顕示欲だけでスターの座を得た人も、決して少なくない。
 こうした風潮の中にあって、田中邦衛の徹底的なまでの照れは、貴重でさえある。しかも、それが少しも嫌みに感じられないのは、彼がポーズではなく、本気で照れているからなのだろう。
「オレなんて、なんの取り柄もないんすよ」
 と、彼がいえばいうほど、
「いいえ、いいえ、あなたは自分で思っているよりはるかにカッコいいし、魅力的ですよ」
 といってあげたくなる。田中邦衛の人徳なのだろう。
 過去に、二度、三度にわたって、田中邦衛に長いインタビューをし、そのたびに生いたちから現在にいたるまでの足どりをたずねたが、それはけっして楽な取材ではなかった。どこかのスターのように、横柄に構えているのでもなければ、そんなことも知らずに会いに来たのか、という顔をするわけでもないのだが。
「オレって、昔からダメだったんですよ。子供のころもダメだったし、大人になってもダメだし、今もダメなんす」
 と照れて、自分からすすんで話すことはまずない。こちらからたずねたら、誇張も隠しだてもなく、すべてを正直に答えるのだが、時間がかかることはたいへんなものだ。そして、聞かれないことには答えないので、一度めより二度め、二度めよりは三度め、と、次々に新しいエピソードが登場する。だから、この人には、何回でもインタビューしたい。何回でも会いたい。仕事のためばかりでなく、この人と話していると本当に楽しい。
 田中邦衛は、本当にいい人なのだ。
     
       
     
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不良にさえなれなかったんです

 子供のころからダメだった、というのが、どうダメだったのか。
「小さいときは、とにかくやんちゃで、いたずらばかりしてましたよ。それで、親父に蔵の中に入れられたり、長いすに縛りつけられたりしてましたね」
「それでいて、めめしいところがあってね。かわいがってくれていたおばあちゃんが死んだときには、ワーワーって泣いたんすよ」
 だからダメだった、というのだが、このエピソードは、言葉をかえれば、元気な子供だった、気のやさしい子供だった、ということになる。
 岐阜県土岐市の窯元“菊泉堂”の息子として生まれた。七人兄弟の四番め。
「窯元といってもね、ふだんは家族だけの仕事で、忙しいときでも四人か五人、手伝いの人がくる程度ですから、たいしたことはないんですよ」
 中学一年のときにタバコを吸って、それが見つかり、父親が学校に呼び出されたりするが、そのていどのことは珍しいことであるまい。だからダメだ、というほどではない。だが、彼にいわせれば、
「いっぱしの不良にもなれなかったんだから、ダメなんすよ」
 ということになるのだが……。
「こんな顔だから、劣等感が強かったんすね。鏡を見て、これでモテるわけがないと思って、女の子と口きけないんすよ」
 それでも、同じ汽車で通う女の子が好きになった。好きになったのはいいが、すれ違うだけで、もう真っ赤になってしまうので、結局最後までそのままだった。思えば、それが初恋だったという。
 ちょうど学制変更で、旧制中学も三年で終わる。卒業当時の成績は、二〇〇人中の一九四番、というから、かなりの低空飛行ではあった。
 高校は、実家から遠く離れた、千葉県の市立広池学園麗沢高校に進んだ。
「成績はよくないし、悪いことはやるしで、しつけが厳しいところへやろうってことで、親父が知ってる麗沢高校へやらされたんすよ。道徳教育を重んじる全寮制の学校でね、最初は鑑別所に入れられたような感じでしたよ。あと何日したら家に帰れるかって、そればっかり考えていましたよ」
 だが、実はそればかりではない。この高校の二年生のとき、田中邦衛は貴重なる初体験をもっているのだが、その事実を聞くのにたいそうときを要した。なにしろ、照れる人なので……。
 上級生に連れられて、東京・亀有の遊郭に出かけた。四畳半ほどの部屋に通された彼は、礼儀正しくあいさつをした。
「初めてなんで、よろしくお願いします」
 だが、相手の女性は、彼の顔を見て、
「うそでしょう。うそよ」と信じない。
「ところがいざというときに、ガタガタ震えちゃって、ようやくわかってくれましたよ。その女性は、東北出身の二十五か六の人だったけど、とてもやさしくてね、いい人だったなあ。二か月ほどしてまた出かけたら、もういなかった。寂しかったなあ」
 という話をしてから、田中邦衛は顔を赤くしていった。
「こんな話、もうカンベンしてくださいよ。オレ、参るなあ。参っちゃうよ」

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生徒に教えられる先生でした

高校を卒業し、自動的に麗沢短期大学に進んだが、田中邦衛と演劇との出合いは、そのころであった。
「遊び仲間に演劇青年がいて、そいつの影響で興味をもったんです。ほかに趣味はなかったもんすから、夢中になって……」
 そして、在学中に俳優座養成所の試験を受けた。
「映画のニューフェイスじゃ無理だけど、新劇だったら顔なんかまずくてもいいんじゃないかって、それで受けたんすがね……」
 朗読、パントマイム、リズム感テスト、筆記試験など、十数倍の競争率の一次試験には合格したが、二次試験で落ちた。
 翌年の春、再度挑戦して、またもや不合格。
「こりゃダメだってあきらめて、田舎に帰ったんす。兄貴と一緒に茶碗屋でもやるのが一番いいって……。その茶碗屋をやってたとき、小学校時代にお世話になった先生に、新制中学の先生が足りないから、お前、やってみないかっていわれて……。それでしぶしぶだけど代用教員になったんだから、オレもいいかげんですね」
 しかも、なんと英語、国語、体育の三課目も教えた。
「英語なんて、とっくに忘れてるから、授業の前の日、必死になって勉強しましたよ。でも、黒板に発音記号なんか書いてると、生徒に“先生、間違えてるよ”っていわれるんです。そうすると、オレ、“悪い、悪い”ってすぐにあやまっちゃう。権威のない先生だったなあ」
 それで、やっぱり先生もダメだ、ということになって、翌年の春、三度めの俳優座養成所受験。
 合格した。俳優座養成所第七期生。同期に露口茂、井川比佐志などがいた。
「あとで聞いたら、三回も受けるというのも、これも一種の才能だからって、合格にしてくれたらしいんすよ。オレなんか、受かるわけ、ないすよ」
 だが、本当はそうではあるまい。審判員たちは、田中邦衛の中に、なみなみならない演技への情熱を感じ取ったに違いない。
 彼の演技への情熱というか、執念を物語る一つのエピソードがある。
 短大に進んで間もなくのころ、友人が脚本を書いた『誤解』という芝居を上演したことがある。田中邦衛は、演出家の友人にいわれるままに稽古を続けていたが、最後はポロポロと涙を流していったのだ。
「オレ、お前のいうようにやれないよ。オレ、できないよ」
 それほどまでに演技を愛し、打ち込んでいる若者を、審査員が見逃すはずがないではないか。もちろん、このエピソードは、照れ屋の本人から聞いたものではないが……。

 
   
 

生まれて初めて怒ったとき

 念願の俳優座に入ったとはいうものの、それからがたいへんだった。無収入に近いのだ。
「いろんなアルバイトをしましたよ。家庭教師をやったり、サンドイッチマンや、ポスターはりや……。ポスターはりは、露口茂とやったんだけど、よその会社の壁にはって、よく守衛に追いかけられたなあ。キャバレーのサンドイッチマンのときには、“きれいなチャンネエ(ねえちゃん)がいるよォ”なんていってね……」
 そのときの田中邦衛の顔を想像してもらいたい。
 六本木の俳優座に近い、霞町の二畳間を借りて住んだ。ミカン箱の机と行李を置くと、まっすぐに寝られない。斜めに寝るくせは、そのときについたという。
 朝は一〇円のコッペパン。昼と夜は四〇円で飯とサンマの開き定食。この食生活が三年続いた。
 岐阜の実家に頼み込んで、茶碗を送ってもらい、それを個別販売するようになったが、生活は変わらない。
 昭和三十二年に、今井正監督の『純愛物語』という映画に初めて出演し、ユニークな脇役として認められた。三十六年には、加山雄三の『若大将シリーズ』に出るようになったが、それでも、貧しさには変わりはなかった。
「そのころには、少し出世して、赤坂の三畳間に住んでいたんだけど、あるとき、加山が泊めてくれって来たんすよ。でも、三畳間に万年床でしょう。育ちのいい加山は、初めはおもしろがってたけど、“やっぱり、オレ、帰るわ”って帰っちゃった」
 だが、田中邦衛の名をいっきょに高めたのが、この『若大将シリーズ』であることは間違いない。キザで、いやみで、情けなくて、ちょっぴりいいところのある、田中邦衛の“青大将”は、ときとして加山雄三の“若大将”を食ってしまうほどだった。
 しかし、田中邦衛はいう。
「加山は、明るくて、スマートで、キラキラと才能があって、青春そのものでしたよ。オレは、その青春にぶらさがってただけです。オレって、いつもそうなんすよ。人の後ろにぶらさがって、この世界でやってきたんです」
 この人ほどベテランになれば、たとえ脇役であっても、主役よりオレのほうがうまいんだ、といってもおかしくないのだが、田中邦衛はけっしてそんなことはいわない。
 萩原健一、三浦友和、草刈正雄、水谷豊、火野正平……。田中邦衛はみんなをほめる。みんな、自分にないキラキラしたものをもっていると、本気で思っている。
 役者とは、キャリアではない。理屈ではない、と信念をもっている。
 だから、かつて俳優座で、中村敦夫を中心とする一派が、イデオロギー論争を起こし、そのために俳優座を脱退するというとき、田中邦衛はいったのだ。
「ショーケン(萩原健一)のように、芝居のシの字も知らないやつが、あんなにすばらしい演技をしているじゃないか。あれを見て、あんたたち、恥ずかしくないのか。理屈のための理屈をこねていて、むなしくないのか」
 おそらくこのときが、田中邦衛が初めて怒ったときであったろう。最初で最後。心からの怒りをぶつけたときであったろう。
 今になっては、
「いいじゃないすか。もうすんだことですよ」
 と、再び照れのなかにはいりこむのだが……。

決死の覚悟のプロポーズで……。

 田中邦衛には、二人の娘がいる。高校生の淳子さんと、中学生の千恵子さん。
「オレって、本当に恵まれていると思いますよ。妻と二人の子供に恵まれて、こんな顔して、役者で飯を食わせてもらってるんだから、オレ、本当にラッキーですよ」
 康子夫人とは、アルバイトの茶碗売りをしているときに知り合った。すでに『若大将シリーズ』は始まっていたが、茶碗売りをやめたら生活できないころだった。
「彼女の姉が、俳優座の同期生でね、オレが茶碗を売り歩いてたころ、彼女の家で夕飯をご馳走になったりしてたんすよ。第一印象はよそよそしい女の子って感じだったな。おみやげにまんじゅうを買っていっても、うれしそうな顔をしないし……。でも、ミシンを踏んだり、夕方の買い物に出かけたりするのを見て、いいなあって思ってたんです。平凡なところに惚れたのかな」
 それで、田中青年、決死の覚悟でプロポーズ。それまで、女性を誘ってうまくいった確率はゼロ。
「で、 OKしてくれればもうけものって感じでぶつかったら、意外にも承知してくれたんです」
 それ以来、彼女の家にせっせと通って、彼女の親と花札をしたりしてゴマをすり、結婚二か月前から、ちゃっかり住みついてしまった。今でも、親子四人、康子夫人の実家の二階に住んでいる。
 大恋愛だったんですね、というと、案の定、田中邦衛はおおいに照れていった。
「オレには“大”のつくようなものはなんにもないすよ。いやだなあ。からかわないでくださいよ。参っちゃうなあ」
 田中邦衛−−まもなく四十九歳になる。くるぶしから一〇センチも短い細いズボンをはき、人に見られるのが恥ずかしくてしかたがないといった顔で、きょうもひょこひょこと歩いている。
「そんなに見ないでくださいよ。かんべんしてくださいよ」
 と、口の中でぶつぶついいながら……。そういう彼に道であったら、あなた、かんべんしてあげてください。田中邦衛は、本当に死にたいほど照れているのだから……。

 
   
     

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