■10月25日更新
キネマ旬報1983.10月号
インダス文明、エジプト文明、メソポタミア文明、中国文明…。雄大なる地球上の大地に築き上げられた文明が、今なお世界各地に残されている。そしてここ黄金の国・ジパングにも、我々を魅了してやまない文明があった。そう。日本を発祥の地とする、邦衛文明がそれである。現代の日本は、高度な印刷技術と共に多くの出版物が発行されている。このコンテンツでは、山積みされた書物の中から貴重な邦衛資料を発掘し、再現する。
 
       
  −−田中さん自身、若い頃は学校の先生だったという話を聞きましたが。
「いや、あれは……資格無しの代用教員で(笑)。国語と英語と体操を教えて、担任を持ってたんですが、無茶苦茶になっちゃったですね、ホーム・ルームが。その頃僕は恥ずかしいんですけれども、文法書というのを読んだ事がなくてね、教える前の日に旺文社の赤尾さんが書いたようなのを買ってきて、初めて勉強したものを翌日教えるという……何というか、ヒドイもんでしたね」
−−それからどうして芝居の道に入られるようになったんですか。
「芝居っていうのも……この間、娘の中学校の校友会誌に何か中学時代の思い出を書いてくれって言われて、何か思い出そうとしても、勿論皆さんと世代が全然ちがって終戦前後ですから……もう……思い出がないんですね。例えば修学旅行へ行って、みんなで隠れ煙草を吸ったとか、煙草は吸ってましたけれども(笑)、 女の子に惚れて荷物を持ってあげたとか、そういう思い出がないんですね。勉強はできないし、運動も秀れてないし、フラフラしてて、何か本当に霧の中をさまよっていた。そういう状態だったような気がしますね。強烈な想念というのは無かったです。それで俳優座の養成所に入ってから……ああ……何て言うかなあ……初めて闇の向うに光がポツンと見えて、俳優になれるかなれないか分んないけれども、とにかくあの灯に向って進んでいこうと。そこからやっぱりいろんな思い出ができてきたという感じですね」
−−俳優座に入られる前に、自分で何かを演じてみたいという興味があったんですか。
「映画に出たかったんですね。ただ自分でもニューフェイスという感じじゃないって分るし、友達からも、俳優座に養成所というのがあると、そっちの方がお前向いてるんじゃないかという事で(笑)」
−−俳優座には何年いらしたんですか。
「養成所には3年間ですが、入る時に僕は2回落っこちて、3回目で劣等生として入りました。優秀な人が大勢いてね、そういうところは純真にね、劣等生は劣等生らしく、授業の時も隅っこにいて居眠りして、バレエには全然出ないで、アルバイトぱっかりしてましたね」
−−映画にはその頃デビューされて。
「ええ。養成所の2年生の時に、今井正監督がオーディションにいらして。江原真二郎さんか主演の『純愛物語』という映画で。それでなぜか僕と井川(比佐志)と大木というのが3人題ばれたんです。僕、人生で選ばれたというのは初めてなんですね。こんなに優秀な人が大勢いる中で俺が選ばれる事があるのかって、それはやっぱりすごくうれしくて、一寸やってみようかという気になりましたね」


−−養成所を卒業してからも、田中さんは俳優座に残られて、安部公房作の「幽霊はここにいる」では新人でいきなり主役という大抜擢をされていますが、もともとは映画志望だった田中さんが、どうして舞台に立たれるようになったんですか。
「僕はそんなに新劇が好きじゃなかったし、俳優座も大体すごいとは思わなかった。俳優さんを見ても、こりゃスゲエとは全然思わなかった。とにかく映画の世界に行きたくて、大部屋でもいいから食える事が先決だったから、大映でもどこでも紹介して下さいって言ったんです。仲間はみんな俳優座に志望出してたんですけど、僕はとても俳優座に入れるとは思ってなかったから。それで卒業の時の最後の舞台に、みんなは劇団員が見てるし、入りたいからあがってるわけですね、僕はこれで俳優座の舞台を踏めるのも最初で最後だって思って、舞台に上ったらライトが僕にパーッと集中して、えれえイイ気分になっちゃったんですね。イヤーッ、やっぱー、これで田舎へ帰れるって、ホントにうれしくて、やけたい事をやって引っ込んできたんですよ(笑)。そうしたらお前、俳優座に入れって言われて。いや俺志望してませんけどもって、一寸待って下さいって言って、田舎に帰って相談して、アルバイトが今までみたいにできないから仕送りをしてくれって話をつけて。そうしたらいきなり安部さんの『幽霊はここにいる』で主役になって。そんなんですよ(笑)」
 
   
 
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